maato’s blog

興味のあることや、これはと思ったことをゆるく情報発信していきます。本ブログで述べられている意見は、私自身の意見であり、所属する団体、企業の見解を反映したものではありません。

ノートルダム大聖堂の火災から考えた3つのこと

この4月から子供が小学生になりました。その結果、家族全体の朝の時間が1時間早まりました。睡眠時間を削るわけにもいかないので、当然就寝時間も1時間早くなり、その結果、夜のパソコンや本に向かう時間が、朝の子供のコラショタイム(お勉強時間)をみることになったり、朝食を一緒に過ごしたり、子供の歯磨きや準備を手伝ったり、というスタイルに変化しました。

小さな変化ですが、きっと歳をとるというのはこういうことなのだろうなと思っています。で、その結果、書こう書こうと思っていたブログや別サイトもおろそかになりつつある。。

ノートルダム大聖堂の火災

そんな中、世界的な遺産であるノートルダム大聖堂が火災に見舞われるという大変な事件がおきました。私も何年か前に妻と見にいったことを覚えています。そんな日本人の私ですら非常に残念であるのですから、特にパリ市民にとってはとても大きな悲しみであるのは想像に難くありません。デジタルデータや3Dデータがあるから完璧に復元できる、というニュースも見ますが、やはり積み重ねてきた歴史がそこにはあります。そう簡単なことではないと思います。

そんなニュースや記事を(ネットでしかみてない情報なんですが)見ながら、通勤中に3つのことを、(かなり勝手に妄想して)考えていました。自分の備忘録として書き出してみたいと思います。

1.機械と人間の責任

このブログを書いている時点で、出火の原因はまだ特定されていません。ただ改修工事がおこなわれていたことから、その工事が何らかの関係があったのかなと想像されます。今後詳細な調査が行われるでしょう。

その状況で勝手な妄想をしていました。これが故意の出火原因ならば問題は違います。が、仮に過失だったとして、さらに工事最中の何らかの作業が原因だったとして、それが作業員による過失だった場合と、何らかの制御装置の誤作動が原因だった場合、どう受け止め方は違うのだろうかと妄想していました。

制御装置の制御プログラム的な誤作動、バグだった場合、めちゃくちゃそれを作った企業は叩かれそうな気がします。誰がこれを作ったのか、なんでテストしてなかったのか、なんでこの仕様だったのか、ちゃんと説明書どおりに使ったのか、などなど。

一方作業員がたまたま過失で、例えば火花が散ってしまって、今回の火災が起きたとしたら、どうだろう。。ちょっとあまりに今回の失ったものが大きすぎて、とてもその特定個人を責めるつもりには至りません。。

機械(制御装置、もうちょっというとAI?)だったら叩きやすく、人間だったら叩きにくい、そんな心情が、自分の中にはあります。この差はどこから生まれてくるのだろう。

似たような状況は実は最近のニュースの中でもありました。立て続けにおきたボーイングの墜落です。これも操縦士が悪かったのではなく、ボーイングの制御装置の不具合でした。結果、ボーイングはめちゃくちゃ叩かれ、とんでもなく株価が下がり、トランプにぼろくそ言われています。無論今回の墜落事故だけでなく、これまでの事故対応も含みの話なのでしょうが、何か似たようなところを感じます。

そしてさらにこれからの時代の自動運転のいわゆるトロッコ問題にも通じる話でもあります。

www.sankei.com

2.同情の境界線

これも勝手な妄想なのですが、仮に作業員の過失だったとして、じゃあその人に責任をとってもらおうかというと、責める気にもなりません。今回失ったものの代償があまりにも大きすぎて、また過失だからこそ、特定個人を責めるのはかなり気がひけてしまいます。確かにその場合は企業の責任だというのも重々承知はしているのですが、それでもやはり作業員が誰だったのかもわかるわけだし、現場にいた人は何かしらわかってしまうので、何かそこを追求する気にも私はなりません。

一方これが、例えば小さな空き家だったらどうでしょう。過失だったとしても、なんでそんなことやってるんだ、ってたたいちゃいそうです。

自分の中でどこにこの、「同情の境界線があるのだろう」と考えていました。1件だったらダメで、10件だったら同情?いやその1件の価値は何だ?歴史?価格?

これも似たようなことがあったなと思い出してみると、2016年の新潟、糸魚川の大火でした。あのときは144軒が延焼しました。原因は一軒のラーメン屋の主人の不始末。ただあまりにも影響が大きかったし、風向きという不運も重なったので、なんとも責めようのない気持ちになったことを覚えています。

今見直すと、判決は火事としては重い、禁錮3年。ただし、144軒の家族の大切な家を延焼させた罪に対して、この判決が重いのかどうかは、私にはよくわかりません。。

news.livedoor.com

3.過失への寛大さと未来優先

ここまで考えてきて、実はこれが一番いいたかったことなのですが、この2日間で、ほとんど何が原因なのか、あるいは責任追及をおこなうようなニュースをほとんど見なかったことに気づきました。パリ市民も、悲しみにくれて祈りを捧げる映像は見たのですが、怒り狂う映像は見ていません(実際はあったのかもしれませんが、少なくとも見ていません)マクロンも真っ先に行ったのは、5年後の再建のコミット。そして大企業の再建のための巨額の寄付。

これ日本だったらどうなんだろう。。責任追及、工事関係者へのマスコミインタビュー、下手したら謝罪要求。。

 

宗教観や価値観、さまざまな要因こそあれ、「過失への寛大さ」が圧倒的に違う、、と痛感しました。とかくちょっとした過失も許されず、当たり前のようにやることが正しく、ちょっと過失しただけでSNSで叩かれる、まるで総国民総監視のような世界の中で、この圧倒的な違いを目の当たりにし、なんか頭をぶん殴られたような感覚になりました。

宗教に関しては詳しくはないのですが、キリスト教は罪を懺悔することで赦しを受けるのに対し、仏教はすべての原因は自分にあり罪を重ねることによって苦をうける、という考えの違いも影響するのかもしれません。

nichirendaihonin.hatenablog.com

宗教の違いが原因であるかどうかは別にしても、この考え方の圧倒的な違いには衝撃をうけました。

今回もパリ市民がアベマリアを歌い祈りを捧げる映像がTwitterで流れてきました。似たようなことは2年前のマンチェスターでのテロ事件あとにも起こったことで、その際は、Orasisの「Don't Look Back In Anger」が歌われています。

vimclip.jp

Don't Look Back in Angerは、今の私たちにふさわしい歌です。
私たちは起こったことに対して後ろ向きになってはいけない。前を向かないと。

こうやって、みんなで一致したどうにも抑えきれない感情を、合唱という形でわかちあう、って何か素敵だよね。

まとめ

これは日々の仕事の中でも思うのですが、一生懸命やってそれでも過失あるいは、失敗したこと、できないことにもっと寛大になってもよいのではと思っています。もちろん営業、数字はそんなこと許すとはいえないのですが、その過程はもっと暖かく見守るべきなのかなと最近思うようになってきました。

自分も若いときはそうだったのですが、他の組織、他の人のやり方を悪くいうことで、自分および自組織の正当性の証明に使おうとする人は、やはり少なからずいます。まず何が悪いのかから話が始まる。もしかしたら社会そのものがそうかもしれないし、課題解決アプローチになれてきた結果なのかもしれません。そういう人ほど、PDCAPDCAっていってる気がします。つねに課題や問題点を見つけたいのかもしれません。

最近自分で感じるのですが、歳をとってきたせいか、そういうのにも自分も(こう見えても)少しずつ寛大になってきたし、むしろもっと失敗例から学びたいなと思うようになってきました。思えば社会も、ネットも、会社の週報も、成功した話ばかりのような気がします。成功ばっかりフォーカスされて拡散される。みんなそれに必死。正直聞き飽きて、聞き疲れてきたし、学ぶことも少なくなってきた。それよりむしろ、一生懸命やった人の失敗の話を聞きたいし、自分も恥ずかしげもなく共有していきたい。いわゆる失敗学ですね。そしてそういう失敗を共有する人を評価する、失敗を共有してもいいのだ、という環境づくりもしていかないとなあと思っています。

そしてその後、当然、「では何をすべきか」を議論しなくてはいけません。そこはどうするか。私は今回のマクロンをみて「何よりも先に5年後の再建をコミットする」姿に、ものすごいリーダーシップを感じ、感動しました。まずはみんなで一致団結して進むべき姿を見せるのだな、と。

 

「現状はいろいろあるが、何よりもまず先に目指す姿を提示する」「失敗を許容でき、むしろ胸を張って共有できる”場”を作る」

歳をとり、限られてきた時間の中で、これから自分はそこにもっと注力していこう、と思ったのでした。

 

まずは明日の朝の、息子のコラショタイム、からだな。
さらに、明日の息子の人生初の検尿も寛大にいかないと。